説明しよう!「障がいは社会の側にある」言葉の深さや意味を考えてみた!

子供達の事

こんにちは、sallyです。

この記事を書いている私は、自閉症児2人を育てるシングルマザーです。

・小学校5年生の特別支援学校の女の子
・小学校3年生の特別支援学級の男の子

子供達が2人とも自閉症児で、福祉という場所にどっぷりお世話になっているとよく聞く言葉があります。
それがこちら…

「障がいは社会の側にある」

正直、子供達を育てるまでは聞いた事ないことばだったんですが、実際に福祉関係の本や、定期的に配られるチラシなんかを見ていると結構多くの人が「障がいは社会の側にある」って語ってるんです。

きっと、障がいというものは「人」ではなくて「社会」の問題なんだよな~なんてぼんやりと思った事もあるんですが、今日はそのことについて深く考えてみたので言語化していきたいと思います。

「障がいは社会の側にある」

「障がいは社会の側にある」っていっても、障がいってどうやって決まるんでしょうね。

障がいへの疑いの始まり

うちの子に障がいがあるかもって私が疑い始めたのは
「みんなと同じ様に座っていられない」
「言葉が出ない」
「食べれるものが物凄く偏っている」
などなど…。

義務教育とか、社会的な暗黙のルールなんてものがない、原始時代とかに生まれていたら「みんなと同じ様に座っていられない」事も、きっとあまり気にならなくて…。
今後、デジタルコンテンツなんかで脳内の気持ちが言語化すれば、言葉での会話ってものすごく減るかもしれない。そうした社会が当たり前になれば「言葉が出ない」もそんなに気にならなくなるだろうし…。

「食育」なんてなければ、食べれるものが限定的でも、さほど気にならないと思うんです。

障がいの分かれ道

要は、この時代に必要な事が出来ない人を「障がい者」とみなされているわけですよね。

「健常の人間」なのか、「障がいのある人間」なのかは「人」によって決まるわけじゃなくて、その環境が求める事が出来るかどうか?そして、その時代の要求に応えれるかどうかで決まるんですよね。

自閉っ子を育てるようになり、どの時代に、どんな状態で生まれるのかっていうのはとても重要なんだな~と思う様になりました。

じゃあ、なんで「普通」と「障がい」を分けるのか?

親として自分の最愛の生命の「障がいがある事は悲しむべき事なのか」っていう問いに、ずっと自問自答を続けていると…その線引きに対する考え方についての疑問が沸いてくるんですよ。

なんで、障がいのある人と障がいのない人を分けたり線引きしたりするのか?って疑問にたどり着くんです。

本来は、「障がい者/定型発達者」として二分法で分けれるものじゃないと思うんです。
でも、そうやってどこかで線引きして分けないと制度が成り立たない。

制度が受けれないと、支援が受けれない。
支援が受けれなければ生きていけない…。

現代社会の福祉を確立するには、こうした制度が不可欠になってきます。

みんな平等?!

よく理想論では「人は、みな平等」っていうじゃないですか。

あれは、障がいのある人や弱者である人が自分自身に劣等感を感じた時に「あなた達も、みんなと同じだよ」というような「救いの声」にもなっていると思うんです。

でも、上述したように、制度を成り立たせるためにはどこかで線引きする必要がある。

「人はみんな平等だけれど…線引きをする…」

理念と制度が矛盾している様に聞こえますが、やっぱりどこかで線引きせざるを終えないような時代なのだと思います。

ただ、スパーンっと2つに切り込みを入れるように線引きするのではなく、お互いがいつでもその線を潜り抜けれるような状況をつくってあるといいな~と思っています。

いや、平等じゃない!?

私は、アドラー心理学のこの理念が好きで「人は平等ではないけれど、対等」、よく思い出します。

人は、みんな平等だって言いきってしまうと、弱者である側の人は手助けや支援を要請しにくくなってしまう。
でも、「人はみんな違うけれど、対等だから」と、「いつでも手助けするよ~」とか「いつでも頼ってね~」「忙しくて断っちゃうときもあるかもしれないけど、気を悪くしないでね~」みたいな環境が理解しあえるのが一番かなと思っています。

アドラー心理学の分かり易く読みやすい本、オススメです!


障がいは社会にあるのなら、社会側に出来る事はなに?!

結論:理解する事

上述した言葉を、もう一度書きます。

「健常の人間」なのか、「障がいのある人間」なのかは「人」によって決まるわけじゃなくて、その環境が求める事が出来るかどうか?そして、その時代の要求に応えれるかどうかで決まるんですよね。

障がいは、その人自身が持って生まれたというよりも、生まれた時代と社会の環境側によって決まるんですよね。

その、社会や環境側が、どんな状態で生まれてきた人にも生きやすい様にさえあれば、その人は「障がい者」ではなくなります。

だから、「障がいは社会の側にある」の意味を言い換えるならば…。

「障がい者=障がいを抱えている人」ではなく、「障がい者=生活するうえで社会のバリアに困らされている人、社会に排他的にされている人」と言う据え方でいいのではないでしょうか。

そうした考えから生まれた言葉が「バリア(障がい)フリー(束縛・制約がない事)」だと思っています。

まとめ

なんか、理想論っぽく書き綴ってしまいましたが、障がいがある事を悲観的に考えたり、その事で劣等感にさいなまれていたりすると貴重な人生の時間が勿体ないんです。

でも、生き辛い社会だ!もっと生きやすくしろ!と社会批判ばかりしていると、それはそれで時間が勿体ない。

社会や国ってなかなか変わらないし、動かないんです。

だから、「障がいがある事で生きにくいのは、自分や我が子に問題があるのではなく、社会と時代のせいだからしょうがない」くらいに思って、正々堂々と弱者として生きればいいと思います。

正々堂々と弱者で生きる?
「助けて」「手伝って」「もうこれ以上頑張れない」と、言いにくいな~と思う気を遣ってしまうようなことを堂々と言えばいいと思っています。

今日は、ここまで~!

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