「障害は社会の側にある」の本当の意味。

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苦手な事ってありますか?

当たり前ですよ。

誰にでも苦手な事の1つや2つはあるでしょう。

何が苦手ですか?

私は寒さが苦手ですね。
冬は本当に苦手で、顔を洗うのも億劫。
電気代ガス代が高くなるとはわかっていても、食器の水洗いや、暖房器具のない場所で時間を過ごすのが本当に嫌です。

それでは、平安時代や江戸時代。
洗濯炊事はすべて女性で、水洗い、暖房なしが当たり前の時代に生まれていたら、どうしたんですか?「おしんの時代」とかね。

「おしんの時代」は具体的ですね。
寒さ以外にも、精神的にも生き抜いていけないかも。
どうしたのでしょうか?

精神的に参って「うつ病」とかになっていたのではないでしょうか?

周りがやっていたら、やるのでは?

そもそも、洗濯機も、お湯のでる水道もしらないわけだから。

えー。
「やれば出来る」とか「みんなもやっているから、あなたも出来る」という考え方はあまり好きじゃないですね。

あはは。

ちょっとその考えは少し我儘なのでは?

そんなことないですよ。
では、何か苦手な事ってありますか?

そりゃ、ありますよ。
料理が苦手です。でも、やれと言われたらやりますけどね。

実際、時々ですが自炊もしています。

主婦でありながら私も苦手です。
お魚をおろすのは特に苦手です。

わかります。
僕は、魚どころか肉を切るのすら気持ち悪いなと思ってしまうタイプで。

あはは。
「おしんの時代」じゃないですが、もっと遡って
狩猟採集の時代に生まれていたら、動物殺さないといけないのですよ。
やれば出来るのでは?

むりですよー。
血を見るのが本当に苦手なんです。
そう思うと、その時代に生きていたら「生きていく力がない」と脱落者扱いにされていたのかもしれないですね。

時代もあるし、生まれるエリアもありますよね。
今の時代だって、自給自足で狩猟採取しないダメな民族も地球上には沢山いる。
それ以外にも、日本は「字」が書けないと「学習障害」とみなされる。その一方で「字」が書けなくても、その土地で問題なく生きる国の人も、沢山いるはず。

そう思うと、生まれる時代や場所であらゆる事への認識がかわってくるのかもしれないですね。

本当だね。

実は僕の弟は「字」の読み書きが出来ず「学習障害」って言われてるんだよ。それ以外はいたって普通に生活できるのに。
そう思うと、文字を使わなくても何も問題ない時代やエリアで暮らしていけば「障碍者」ではなくなるのかな。

◇障害ってどういう状況ですか?


人は皆、苦手な事があります。
その時代が求めている事が苦手な場合」もしくは「その居住エリアが求める事が出来ない場合」に「一人では生きていけぬ人」として「障害」と呼ばれています。

今の日本は学校で文字を習い、社会に巣立っても文字を使う。
「文字の読み書き」を求められるから、それらが出来ない事を「学習障害」と呼ばれる。
つまりは「障碍者」で、支援の対象となります。
では、28歳の時にアメリカから日本に嫁いだ女性はどうでしょうか。
それまで日本語に触れる事もなく、今も、読み書きも出来ない。
彼女は「障害」にあたるでしょうか?

時代が加速し「次世代」がやってきたとき「文字の読み書きが必要ない時代」が、やってくるかもしれない。そしたら、また「学習障害」の概念が変わる。

私の娘は自閉症です。
日本語もままならず、人の社会に溶け込むのも苦手です。
ただ、小さい時から大型犬に近づく事もへっちゃら、馬や牛も大丈夫。
大自然は大好きで、体力も年齢に見合わずある。
そんな彼女が、狩猟採集の時代に生まれていたらどうでしょうか?
支援に頼らず生きていけた気がする。
むしろ、彼女がリーダー。

息子も障害を抱え、自閉症スペクトラム。
彼は娘と違い、コミュニケーション大好きですが、興味や活動が偏っています。
その為、学校での集団生活が難しく支援を必要としています。
でも、どうでしょうか?
「学校に通い教育を受けるという時代」から「ネットワークを通し授業を選べ、学べる時代」が幼少期から可能になれば、また彼への障害の概念は変わってくる。

そう思うと、「障害」判定を受けるのはとても流動的。
「定型発達か障害か」その分かれ道は自分自身ではない。
「時代と居住地の社会側が求める事」との、相性で決まる。

その人が幸か不幸かは障碍を有無ではなく、自分の足らぬ部分を手助けしてくれる人がいるかどうかの環境的問題です。
そして、「人生が豊か」かどうかも、障がいの有無では決めてはいけません。

人生の豊かさは、もっと別の部分にあります。
自分がどのように生きたいかわかった人は幸せだし強いです。
そういう人は、自分に何が足りないかを知っている。
だから、何を必要として、何を優先して生きていきたいかが明確。
だから自分と他人と比べない。
パラリンピックのアスリートも、何を必要として、何を優先したいのかが明確なはず。

障害は社会の側にある」と、よく聞くようになりました。
障害は本人ではなく、無知な社会側にあるという意味が含まれています。

下記は「内閣府調べの平成30年度 障害者の状況」
身体障害、知的障害、精神障害の3区分について、各区分における障害者数の概数は、身体障害者(身体障害児を含む。以下同じ。)436万人、知的障害者(知的障害児を含む。以下同じ。)108万2千人、精神障害者392万4千人となっている。
ここ数年で障がい者の数はぐんと増えています。
突然に増え始めたという事は考えにくく「認知され始めた」という事です。
しかし、欧米では各国で知的障碍者の認知度は人口の2-3パーセントと報告が上がっています。
ここ数年で認知度が上がり、割合が急増したとしても、知的障碍者108万人という数は0.8パーセント程度にしかなりません。
「日本人は知的障碍者が生まれにくい」というデーターはないそうです。
欧米各国と同じ比率で考えるなら、日本にも240万人から360万人の知的障碍を抱えた人がいてもいいのです。
この数字の事実は、日本が先進国でありながら、障がいに関して後進国。
いえ、無知で無関心であることを現している気がしています。
障害のある人に「手を差し伸べている」という感覚があるのなら、まだ無知だと思ってほしいくらい。
彼らが生きている意味や存在意義を感じられ、彼らの方から人を選んでいくような福祉が叶ってほしいな。

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