こんにちは、sallyです。
[voice icon=”https://triodiary.com/wp-content/uploads/2020/07/image-22-07-20-06-42-002.jpeg” alt=”virginia-icon1000″ name=”sally” type=”l icon_blue”]この記事を書いている私は、自閉症児2人を育てるシングルマザーです。・小学校5年生の特別支援学校の女の子
・小学校3年生の特別支援学級の男の子。[/voice]
子供達が2人とも自閉症児で、福祉という場にお世話になっているとよく聞くんですよね。
「障がいは社会の側にある」
これは、障がいは本人の生まれた状態にあるわけではなく「障がいを理解していない社会の側にあるんだよ」と言う言葉です。
今回は、この言葉を深く考えるとともに「障害と社会」について考えて行きたいと思います。
この記事を読んで、自分の子供の障害に対して悲観的になる人が少しでも減り、多くの人が社会のどの部分に変わって欲しいのかを考えれるようになるといいなと思っています。
「障がいは社会の側にある」

「障がいは社会の側にある」といっても、社会のどの部分にあるのでしょうか。
その辺りを深掘りしていきます。
障がいと社会との密接な関係
私が思うに、多くの障害って「生まれた状態や人」によって決まるわけではなく「時代背景や環境、社会」によって決まるんじゃないかなと思うんです。
若かりし頃、東南アジア圏を一人旅した事があります。
その時よく屋台で食事を購入するのですが、どんなに勧められても「ゲテモノ」と言われる昆虫の形をしたもの食べる事が出来ませんでした。
食べれないどころか、その山もりを見るだけで気分が悪くなるのです。
インターネットの普及も今ほどでなかったあの頃。
もし仮に、私が昆虫を食す文化圏に移住する事になったのなら「適応障害」「味覚障害」と呼ばれていたかもしれません。
それに、私は血を見る事も苦手です。
だから、昆虫が食べれないのならと提示された代替案が「この牛をさばいて焼いて食べなさい」と言われたら私はきっとさばく事も、料理する事も出来ないと思うんです。
これは極論ですが、そういったようにその社会や環境で生きていけない状態を「障害」と呼びます。
現代の日本社会の教育
では、現代の日本の学校はどうでしょうか?
日本教育は「文字の読み書き」や「暗算での教育」を教えます。
多くの子どもに「一律の学校授業についていく事」を求めています。
電卓があれば計算が出来る子にも、集団の中では気が散って授業についていけない子にも、一律の学習方法を求めます。
「◎◎があればできる子」のはずなのに、「○○の方法では出来ない子」にすり替えてしまうのです。
そうした取り組みを基準に、授業についていけない子にしてしまうのは、おかしいなあと思うんです。
時代の進化と共に…
例えば、私の友人の子に学習障害を抱えている子がいます。
学習障害は知的発達に遅れはなく、聴覚・視覚機能にも問題がないにもかかわらず「聞く」「話す」「読む」「書く」などが、極端に苦手な人たちです。
学習量が足りない訳でも、怠けているわけでもありません。
でも、よく考えてみれば海外から日本に来た方たちだって、学習障害の方と状況としては同じなんですよね。
「聞く」「話す」「読む」「書く」は苦手なのだけれど、出来ない事を誰かに支援してもらう事で何の問題もなく暮らしていける。
だから、障害を抱える人も支援の手さえあれば・・・と思うのだけれど、(日本人なのに)「聞く」「話す」「読む」「書く」くらいは勉強できなければ…となってしまう。
でもね、少子化がさらに進めば、いつか純血の日本人がほとんどいなくなるかもしれない。
それにデジタルコンテンツやテクノロジーの進化で、読み書きへの困り感がなくなる日がくるかもしれない。
そう思うと、自分の生まれた状態を障がいと判断されるのは、時代の流れに沿って起こってしまうものなのです。
障がいとは
障がい者の定義は時代によって変わっていくものなのです。
現在、障がい者と呼ばれている人が、未来の世界では何の問題もなく暮らしてける人なのかもしれない。
反対に、いま定型発達と呼ばれている生活強者が100年前にタイムスリップすれば「適応障害」となるのかもしれない。
「障がいのある人間」なのかは「体や脳の状態」によって決まるわけではなく、その環境が求める事が出来るかどうか?そして、その時代の要求に応えれるかどうかで決まるんですよね。
自閉っ子を育てるようになり、早くテクノロージーがもっと社会児馴染んでくれと思う様になりました。
そして、もっと進化して欲しい。
現代の障害の診断について

ではなぜ、現代では障がいの診断を受けるのでしょうか。
私を含めて周囲の障がいある子のご両親を見ていると、我が子の障害の診断に怒りを露わにしたり深い悲しみ襲われる人ばかりです。
上述した事を考えれば、「障害とは悲しむべき事なのか?」と思えて来ます。
私も、そうした問いをずっと自分自身に投げかけてきました。
診断で分ける事の定義
自閉症の子供たちを育てていく上で「なぜ、障がいのある人と障がいのない人分けて考える必要があるのか」と思う事もあります。
本来、人間は障がい者と定型発達者の2分法で分けれるものじゃない。
でも、そうして線引きしないと制度が成り立たない。
制度がうけれなければ当然支援も受けれないし、支援が受けれなければ生きる力がない人となってしまう。
現代の税金を利用した福祉を確立するには、こうした診断と制度が不可欠になってきます。
「人はみんな平等だけれど…線引きをする…」
理念と制度が矛盾している様に聞こえますが、やっぱりどこかで線引きせざるを終えないような時代なのですよね、うーん。
制度と理念
制度としては、障がい者を分けて考える。
でも、理念としては「人はみんな公平であるべき」となる。
制度と理念とは相反した行動をとっている事になるし、矛盾している様に聞こえますよね。
でもこれは、今はまだ仕方のない事。
そんな、時代に生まれてきてしまった…これは変えられないのですよ。
でも、ただスパーンっと2つに切り込みを入れるように線引きするのではなく、お互いがいつでもその線を潜り抜けれるような状況をつくっておくべきですよね。
障がいは社会にあるのなら、社会側に出来る事はなに?!

答え:理解、知ろうとする事
制度や、支援者だけど労働や事業として増やしてOKではなくてやはり障がいを抱える人への理解とか知ろうとする気持ちが大事だと思うんです。
何度も書いてきましたが、障がいはその人自身が持ってうまれてきたのではなく、生まれた時代と社会の環境側によって決まります。
[box class=”blue_box” title=”障がいは社会の側にあるとは”]- 【✖】:障がい者=障がいを抱えて生まれてきたかわいそうな人…ではありません!
- 【◎】:障がい者=生活するうえで社会のバリアに困らされている人、社会に分けて考えられている人
そうした理解がもっと深まっていくといいなと思っています。
サリーの考えのまとめ
私が子供の頃も、クラスに必ず1人は「ついていけてない子」がいました。
そうした子は、グレーゾーンと呼ばれる子だったのかもしれない。
理解も出来ていないのに、みんなと同じ場に立たされるってまるで公開処刑ですよね。
そうした人たちも含め、全ての生き辛い人に生きやすさを感じて欲しい…でも、社会や国ってなかなか変わらないし、動かないんですよね。
だから障がいを抱える方には、その生きにくさは「自分のせいじゃなく、社会のせいだから仕方のない事」と思って、正々堂々と社会に支援の手を求めてほしい。
正々堂々と?
福祉の手を借りる事を、申し訳ないと思わないで欲しい。
「私には、そのやり方では分かりません」「助けてください」「手伝いが必要です」と胸を張って言える社会が来るといいなと思っています。
今日は、ここまで~!
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私は誰かの視点に立って考えるのが好きです。
そしてやっぱり、色んな人の立場に立って考えるのって知識と思考が必要だと思うんです。
じゃあ、その知識と思考はどこで培うのか?と聞かれたら本なんですよね。
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