私は、自閉症児2人のひとり親をしています。
👧2009年生まれの特別支援学校に通う、自閉症の女の子
👦2011年生まれの特別支援学級に通う、自閉症の男の子
突然ですが「自閉症児」「発達障害児」の方って生き辛いんですよ。さらには、その方の世話をする人もとっても生き辛い。
でも、これって「障がいを抱えているからなのかなあ?」という私の疑問があります。違うと思うんですよね。その生き辛さは風習のせい、そして環境のせいだと、自閉症児2人の母としてそのように思っています。
自閉症児が生き辛いのは、障害のせいじゃなくて風習のせいだと思う
なにか、苦手なことってありますか。運動が苦手とか、料理が苦手、片付けや、勉強といった、人には得意なことがある反面で必ずといっていい程なにか不得意なことがあるはずです。
不得意なことが多ければ多いほど、生き辛い。自閉症児は、この不得意なことが山のようにある状態なんだと思います。
一般的に多くの人が不得意なことは、社会問題として捉えられることによって問題解決へと向けて取り組ます。家電だって、日用品だって、社会の仕組みだって大昔と比べれば人々の暮らしを良くするために、どんどん発展しています。
しかし、障がいのある人が不得意なことは「障がい」のままにされることが多く、問題として捉えてもらいにくいんですよね。
身体障がいを抱えるかたのスロープや優先駐車場などはありますが、まだまだ足りてないでしょうし、目に見えにくい障がいの「自閉症」「発達障がい」「統合失調症」の方々の不得意とすることは、もっともーっと放置されたままの気がしてなりません。
なぜ放置されたままなのかと考えてみたら「日本の古くからの風習」が、邪魔をしているのではと思うようになりました。
少し詳しく解説してまいりたいと思います。
日本はとても豊かな国なのに、生き辛い
日本には四季があり美しく素敵な国です。コンビニひとつをとっても、ホスピタリティの精神は高いし、震災や自然災害が起こってもみんなで協力しあうといった精神を忘れない日本人って凄いですよ。
外国の方々も、日本に来て最初に驚くのはそうしたホスピタリティの場合が多いそう。犯罪も少ないし、道も看板も本当にきれいでゴミも散らばっていない物理的に最高な国ですよ。
それなのに、ストレスを抱えて生きている人がとても多く「過労死」と言う言葉まで存在しますし、その言葉は海外の方からは理解できない言葉だそうです。「なぜ、そんなになるまで働くんだ?」「なぜ、自分の幸せを犠牲にしてまで社会のルールに従うんだ?」と思ってしまうそう。
考えてみれば、当然のことなのにみんな頑張り過ぎてしまう。なんでそんなに頑張るのかといえば「みんなも頑張っているから自分もがんばらないと」「自分が安め場迷惑がかかる」といった、自分を犠牲にしてまで頑張る姿が美しいとされる風習だったり、周りに迷惑をかけてはいけないといった風習の威力が凄いからではないでしょうか。
そのなかでも代表的な、生き辛さの原因となる風習をピックアップしていきたいと思います。
年功序列

日本には「年功序列」と言う言葉が存在します。
加齢とともに労働者の技術や能力が蓄積されて、最終的には企業や団体に貢献し役立つ存在だという考え。
長年培った経験による「カン」が重宝された時代では、年功序列のシステムは良かったと思います。
でも今は「年功序列」より「成果主義」の時代なんですよ。「カン」よりも「データ、予想検索機能」といったシステムやテクノロジーが明らかに年配の方々のカンという知能をこえているんですよね。
システムやテクノロジーを扱える人は年齢を重ねた人よりも、若い人のほうが秀でている場合が多いのですが、未だに多くの場所で「年功序列」の風習が残ってるために若い人が評価されることは少ない。
若くても優秀な人はたくさんいるし、年を重ねても経験が役に立っていない人もいるのが現実です。今の時代にそぐっていない風習が、ときに精神を疲弊させすぎてしまいます。
年功序列の風習が引き起こす二次障害があります。それは「横柄な態度」。私はこれを最低最悪の行為だと思っていますが、今でも時々見かけます。
コンビニの店員や、飲食店の方々に横柄な態度をとっている人がいますが、客と店員の間に上下関係なんてありません。店員はサービスを提供してくれて、客はそのサービスに対して対価を払っているだけのこと。
昭和の時代に「お客様は神様です」と言う言葉が流行りました。商売繁盛のために、お金を払ってくれる客に対し「お客様は神様です」と謳われた言葉が流行したためです。
でも、お金を払っているという理由だけで横柄な態度をとるような人は、神様なんかじゃありませんし最低ですよ。サービスに対し、お礼をいったり笑顔を向けたりできないような人へ対して、年上を敬う敬意なんて払えません。
周囲の目を気にして生きる

周囲の目を気にして生きる風習も日本独特だそうです。特にこの「周囲の目を気にして生きる」といった風習はいち早く消え去って欲しいと思っています。理由は、自閉症の生き辛さにさらに拍車をかけていると思えて仕方ないからです。
自閉症に限らずですが日本人の悩みのほとんどって、周囲の目を気にするのを辞めれば無くなってまうのではないかと思っているくらいです。
思い返せば、小学校の頃から髪型や体操服にまで決まりがありました。就活のときだって、いかに規則的な服装を正しく着こなせるかや、正しい日本語を話せるのかが注目されすぎています。終活って本来自己アピールの場なのに。
そうした枠の中に収めようとするから本来は物凄く優秀な若者でさえ、リラックスして自分のスキルや能力を主張することが出来ない場合も多いのではないでしょうか。
最近はクールビズとかも効きますが、猛暑なのにネクタイを外すことにまで謝罪の文が企業や自治体に貼られているのって、異常としか言いようがありません。
ファッションやヘアスタイルといった見た目の問題での「周りの目」だけではありません。上司が残業しているから帰宅できないとかの問題も未だにあります。
仕事を早く切り上げることが出来たのはある種の才能なのに、なぜ上司が残業しているだけでその周りの人も残らないといけないんだろうと思います。
それに退社後に羽目を外して遊ぶことを悪いことと悪いことのように言う人もいるし、主婦が子どもを預けて遊びに行くことを悪く言う人も未だにいます。そうした、遊びは仕事より下と言わんばかりの目に見えない圧力が非常に多い。
遊びは仕事より上でも下でもありません、遊びという充実感があるからこそ、労働や育児といった大変なことも頑張れる人だって多いはず。ガンガン遊べば仕事や育児に一生懸命向き合えるいう人も多いはず。
幸せの道が存在している幻想

日本では一部の許された人にしか、生き方の多様性を許して貰えない様な風習があります。
「学歴」「結婚」「出産」「就職」「出世」といったことは、当たり前にみんなが通っておかないと、大変なことになると言わんばかりの目に見えない風習があります。
目に見えない「幸せの道」とでもいいましょうか。そんな幸せの道なんてありません。プロ野球界の大御所イチロー選手やフィギュアスケート界のスーパースターである浅田真央選手が「幸せの道」を気にしながら生きてきたと思いますか。絶対してないでしょうし、自分で自分の道を作りながら必死で頑張ってきたのだと思います。
時代は令和ですよ。

「年功序列」 「周囲の視線を気にして生きること」「幸せの道が存在している幻想」のどれをとっても、弱者をより弱者に追い込むような風習だなあと思うんです。
年功序列のように「長年培ったカン」を重宝されては、カンよりデーター重視の自閉症児たちは、全く機能しない人になってしまいます。
周囲の視線なんて気にしていては、自分達の独自の行動がある自閉症児たちにとっては、出来るはずのことも出来なくなってしまいます。
誰かの作った幸せの道を辿らなければ、まっとうな人生が手に入らないと思っている人がいるから自閉症の子達は生まれながらにして惨めな子と思われてしまうのです。
自閉症という障がいを抱える私の子ども達は、今の日本のサポート体制では大学進学や、結婚、一般企業の就職や、出産は出来ないかもしれない。本来は、生物学上には健康なので本人が望めば全て出来る可能性はあるのだけれど、社会的なサポートがたりないためにどれも出来ない。
でも、私の子ども達はそうしたことを不幸だと思いながら生きているようには見えず、大変で不便そうですが一生懸命に頑張って健全に生きています。
その「大変そうで不便そう」の部分に、もっと社会が歩み寄ってくれればいいのに…と親として思っているのですよ。
今日は、ここまで~