私は、この子たちのひとり親をしています。
👧2009年生まれの特別支援学校に通う、自閉症の女の子
👦2011年生まれの特別支援学級に通う、自閉症の男の子
障がいのある人の頑張る姿をみて、感動したことってありますか?某24時間テレビをみて、障がいのある人達が頑張る姿をみて涙する人がいます。それとは逆に、障がい者を見せものにするような動きに反発する人もいますよね。
そしてまた「障がい者の頑張る姿を見せものにするなんてひどい」と言っていた人が、同じ口で「頑張れ」と言いながら泣いているなんてこともあります。
両方とも障がい者を思っての、健全な気持ちだとは思うんがとても不思議ですよね。
今日は障がいのある子を育てる親として「障害者の頑張りをみて、感動することについて」考えてみたので、お伝えしていきたいと思います。
障害者の頑張りをみて、感動することについて思うこと

障がいのある人が頑張っている姿に涙する人は多いと思うんですよね。私も、24時間テレビを視聴して涙したことはあります。
けれど障がいのある子の親として、障がい者の頑張る姿を見て感動する人がいることに、疑問を抱くようにもなったんですよね。
なぜかと言えば、障がい者をみて感動してしまう理由には「障がい者は可哀そう」と思う気持ちがあるからではないからでしょうか。
可愛そうという気持ちは、自分より障がい者を下に見てしまってはいないでしょうか。そうした思いから「可哀そうだから助けよう」っていう支援のもっていき方は、少し違うんじゃないかなあって思うようになりました。可哀そうだから助けようは「自分が上」ということ。
「自分より可哀そう=下に見ている」と思えて仕方ありません。
憐れみの気持ち
みんなと同じやり方では、同じことが出来ないのが障がい者なんですよね。
だから、そこで「可哀そうだね」と憐れむのではなく「じゃあ、どうすれば一緒に参加できるんだろう」と考えてほしいんですよ。「可哀そうだね」で終わってしまえば、結果として「障がい無く生まれてくることが出来て良かった」と、自分だけの気持ちの部分で終わってしまいます。
障がい者のがんばる姿をみて「どうすれば、一緒に参加できるんだろう」「自分に出来ることは何があるんだろう」と、考えることが出来るようになれば何か行動を起こしていくことだって可能なんですよね。
大きな行動じゃなくてもいいし、すぐに行動をおこさなくてもいい。「可哀そう」ではなく「理解したい」と思うだけでも、それは考えるという行動なんですよね。
障がいのある人の立場になれば「可哀そう」と思われることと「理解したい」と思ってもらえることは物凄く違いがあるんじゃないかなあと思うんです。
障がい者の頑張りを自分のエネルギーにする気持ち
似たような感情で「障がい者も頑張っているんだ!じゃあ、私も頑張ろう」と思うのも、ちょっと違うとおもうんですよね。
障がいのある人の頑張りを見て、自分自身を奮い立たせることは消して悪いくは無いのだけれど…でも、障がいを抱える人たちの訴えるのは「自分たちの頑張りをみて、あなたの活力としてください」ではないと思うんですよね。
「みんなが当たり前に過ごしている毎日を、なぜ自分たちはこんなにまで頑張らなければ手に入れることができないのか」「自分達にも、頑張ったり必死になららくても楽に生きれる配慮は必要だ」ということは訴えたいはず。
そうしたことを踏まえて考えれば「えこひいき」と「配慮や支援」の区別もつくと思うんだけどな。
「えこひいき」と「配慮や支援」

ときに、障がいのある人も同じ生きやすさを求めるのであれば、特別扱いはしないという考えが浮かんでしまう人がいます。ですが、そうした障がいを抱える人の特別扱いについて「えこひいいき」と「支援や配慮」は全く違うものです。
たとえば、これらは支援や配慮にあたります。
- 外国の方に通訳をつける
- 目の悪い人が眼鏡を使う
- 年配の方が杖を使う
その地域で安定して暮らしていける生活のためのサポートは、えこひいきではありません。それと同じことが障がい者の人も言えて、字が読めない子にはiPadなどのデジタルコンテンツが有効なこともある。
聴覚に過敏があり、運動会のピストルの音が怖い子がいるのなら、あえてピストルという風習を笛に変えるというう配慮もできます。これは、支援とか配慮という人として正しい精神論なのです。
学校の中で、配慮や支援について多くの子に学んでほしい

だから、小さいうちから出来るだけ多くの子に配慮や支援について自然と身につけて欲しいんですよ。
たとえば間違った障がいへの捉え方が、こちら。
- 障がいがあるという事は「可愛そう」「出来ない子」と、思わせるような教育
- 「障がいを抱える出来ない子が頑張っているから、自分も頑張ろう」と、関係を上下に思ってしまう道徳
- 障がいがある事は、不便なだけなのに不幸だと思わせるような、努力主義を打ち出すような教育
本人の努力ではどうにもできないこともあるのが障がいなのに、努力すべきという風習があまりにも浸透し過ぎている。
そのまま、何も関わり方を学ばないまま大人になるから、障がい者へどうかかわっていいのか分からない人があまりにも多いなあと思っています。「可哀そう」と思うのではなく、「この人たちが、楽に暮らしていく為に自分が出来ることってなんだろう」と考える。
これを、歩み寄りとか支援とか配慮ってよぶのではないかなあと思っています。
まとめ

障がいのある人に限らず、全ての人の頑張りというのはときに自分にとっての励みとなることも多いです。
ハンディを抱える障がいのある人達の頑張りに対し「自分は彼らを下に見てないのか?」「哀れんでいないか?」をいま一度考えてみて欲しい。
そして、彼らが自分達と土俵にあがり、歯を食いしばるような頑張りなく、一般的な普通と言われる生活を手に入れる事が出来る為に、自分たちにできる事はなんなんだろうを考えてみて欲しいと思います。
今日は、ここまで~♪