人生100年時代といわれますが、健康寿命は80年くらいではないでしょうか。そう思うと、人生の半分を超えました。
私には、人生の後悔があります。後悔はよくないものとして捉えられますが、私はしっかり「自分の選択は間違っていた」と受け止めたい。「あれは失敗だった」と受け止め、同じ失敗を繰り返さないよう残された人生の時間を少しでもいいものとしたい。
私の後悔は、他人の人生を生きたこと。昭和生まれの、私の若い頃には「いい人生の型」が存在していました。
「いい企業に就職できれば、生涯安泰」「結婚して子どもを産むことが、女性の幸せ」などと思う人が本気で大勢いた。そうした、社会の価値基準と自分の人生を照らし合わせて、間違っていないかどうか確認しながら生きる人も大勢いました。
私も、親や学校の求める「いい人生」を手に入れるべきだと頑張ってきました。そのような努力が、自分が本来求める生き方と遠のいてしまうケースもあり、結果として他人の人生を生きることになります。けして意識的に他人の人生を生きたわけではありません。小さなころから刷り込まれた常識に対して、私の考える力が弱かったために巻き起こったことです。
そうした経験があるために、息子が「私の期待通り」「私の喜ぶように」生きようとすると、本気でやめて欲しいと願う。「親にとってのいい子」なんて、私の二の舞を踏まないでほしい。「自分の生きたい道」をできるだけ早く見つけて欲しい。たとえそれが、私の反感を買ったとしても。
誰かの期待通りに生きようとするのではなく「自分は、どういう人生をいきたいのか」いった思考が、きっと人生の後悔を最小限に抑えるてくれるのではと考えます。
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私のお話を少ししましょう。私は、新卒で「いい企業」に入れたために親は大喜び。だから、辞めると伝えたときには猛反対だったし、周囲の友達にももったいないといわれることも。上司にも、止められた。
なかなか決断することができず、若かりし貴重な時間を7年もその企業に注いでしまった。会社を辞めたあとも、本当は取り組みたい活動があったのだけど、20代後半…「定職に就く」「結婚」「出産」といったプレッシャーもありました。これもまた、社会が提示するところの幸せの基準と自分の暮らしを照らし合わせていました。若い、あの頃にしか体験できないことを親や周囲の反対を押し切ってでも挑戦すべきだったなと、後悔しています。
もちろん、いい企業に入社することも結婚して安定を感じる生活を送ることが、自分の価値基準なのであれば最高だと思う。ただ、そうした人生を自分が求めていない場合「周囲のいう通りにしたのに、こんな人生が待っているなんて」となってしまうケースも多いはず。そこまでいかなくとも「なんか違和感」と感じたまま貴重な若かりし頃を過ごしてしまう人も多いはず。
違和感は日々蓄積されて、ストレスに変わるんですよね。そしていざ、その慣れきってしまった安定から飛び出そうとすると不安に感じてしまう。周囲からも「安定の外は大変な暮らしが待っている」といったアドバイスを貰えばさらに心は揺らぎます。
でも実際のところ、人生は大体のことはなんとかなる。
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その後、離婚しました。結婚・出産・専業主婦を経て約10年ぶりに突然「ひとり親×ワーママ」となり、やっと自分人生を歩もうと決めます。しかし今度は、社会構造の違和感に気付きました。
男性が作った「長時間労働」や「フルタイム勤務」が基準の働き方のなかで、子どものいる女性が力を発揮するのは本当に難しい。働き方だけじゃない。教育もおなじで、障害のある子どもが定型発達児のために作られた教育の中で力を発揮するのも本当に難しい。
社会的にも「介護者」「おひとりさま」「セクシャルマイノリティ」など、さまざまな視点が存在して良いはずなのに、あまりにも社会構造が「一定の人視点」で、画一的に作られている。こんな中で「自分らしく」を発揮するなんて至難の業ではなかろうか、と。
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社会に根付いた価値基準と照らし合わせて自分の生き方を判断することや、一定の枠組みの誰かが作った社会構造の中で枠外の人々が生きていくのはとても大変なことです。
だから、できるだけ多くの視点を持っていくことが大切だと私は考えます。
・この常識は誰が作った物だろう。
・この人のいっていることは、誰の基準の意見だろう。
・この人のいう常識は、いつの時代のものだろう。
何かに悩んだときは、共に生きる人のアドバイスを取り入れるのは大切。だけど、「自分はどうしたいのか」といった、自分の価値基準と向き合うことが大切だと、私は考えます。
結婚や就職・教育など、答えがないことほど自分はどうしたいのだろうと、自分基準で考えることが大切にされる社会になってほしいと思います。