【特本コラム#31】他人を引き合いに出す、卑怯な大人

他人を引き合いに出していいのは、子どもだけです。

 

子どもはよく「○○が欲しい、○○君も持っている」と、自分の意見の中に他人を引き合いに出します。これは、自分の不利な状況を他人の力を借りることでしかカバーする方法しか持っていないためです。

 

自分の考えをまとめる力も、一時の欲望と長期的な必要性を分別する力も未熟なために、他人の力を借りてまで自己主張を通そうとします。

 

また、大人でも「自分が不利な状況」に立つと、他人の力を借りて攻撃してくる人がいます。

 

典型的には、夫婦喧嘩の際に「職場の人も、自分と同じことをいっていた」「私の友達もみんな同じ意見なのよ」などです。

 

以下でお伝えする2つのことに気が付けば、人はそんな態度を取らなくなります。

 

ひとつ目は「自分の意見が持てていない」ということ。

 

他人を引き合いに出さなければ自分の意見を述べることもできない、未熟な主張ということ。

 

自分のなかにある「なにか」を本気で伝えたいと思う場合には、自分の頭でしっかりと考え「なぜ」「どうして」を練り直す必要があります。「○○さんもいっていた」などという借り物の意見は、逃げにも等しい言動ということ。

 

よく覚えておくべきです。自分の頭でしっかり考え、自分の意見を持つ人にしか強い主張はできません。また、借り物の意見では自分の思い描く人生さえ正しく選択していくことができません。

 

ふたつ目は「責任転嫁」。

 

他人を引き合いに出すひとは「自分の言動に責任を持てていません」といっているのと同じ。

 

他人と意見がぶつかり合うほどの論議の大半は、正解などありません。正解がないことだから、意見が割れる。

 

やってみないと答えが出ないことが大半で、答えが分かるのは数年先ということもあります。もちろん、自分の主張が間違っていたということもあります。

 

自分が通した主張が、結果としてあまりいいものではなかった場合に「○○さんも、いっていたし」と、責任から逃げることもできます。自分の言動に責任をもたなくても許されるのは、子どものうちに卒業したいですよね。

 

とはいえ、裁判や調停や論文作成の際には、エビデンスなどを用いて他者の意見やデーターを用いることがあります。それは自らが体験した事実を述べる必要が生じているからといえます。「とりあえず、今回はこちらでやってみよう」などといったディスカッションとは全く違うケースなのです。

 

この2つが、とても子ども染みた行動だと気が付くと他人を引き合いに出してまで自分の意見を通そうとはしません。

 

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私は、宗教の勧誘とネットワークビジネスの勧誘を本当によく受けます。もちろん、ひとり親や障害児育児をしている私のことを思って「助けたい」「暮らしを楽にしてあげたい」と考えてのことでしょう。

 

ただ、その両方の多くが自分で勧誘するケースは少なく、私の全く知らない誰かを間に挟んで話し合いたいと申し出るケースや「とりあえず、このYouTubeをみて」と他者の説明を聞かされます(見ませんけど)。

 

どうも私には、他人の力を借りた主張が短絡的で一方的に感じてしまいます。

 

また、障害児育児もよく似ています。ABAがいいとかTEACCHがいいとかさまざまな療育を支持する意見が、宗教争いのように飛び交っています。

 

発達障害の子に見合った支援は「どれが多くの人に選ばれているのかどうか」の問題ではありません。「この子には、どの両方が見合っているのかを見極める専門性」や「仮に取り組んだ療育が合わなかった場合」において、次の方向性を示すことができる専門的な視点が必要なのだと思います。

 

「○○ちゃんのところは、ABAで発達障害を克服したよ」などという意見は、非常に短絡的だなと私は感じてしまいます。

 

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夫婦喧嘩にせよ、教育の場面でも、職場でも、意見が割れた場合に他人を引き合いにだすことは自分にとっても相手にとっても意味がない(逆に大きな損失となる)こと。

 

「他人を引き合いに出すことは、幼稚な思考」…それに気づくと、主張の強い人の意見にむやみに悩まされることも大幅に減ります。

 

似たようなエントリをこちらに書き綴っています
>>>思い通りにならないと感情をあらわにする、子どもな大人

 

今日は、ここまで!

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