正直なところ、私は子ども達の生き方を矯正しているなとよく思う。
私は「娘と言葉で円滑な会話が行えたらどんなに素敵だろう」と、何度も思ったことがあります。また「娘がパニックにさえならなかったら、私はどれだけ育児が楽だっただろう」と思う。
ただ、これは私本位の娘の生き方の矯正だと、つくづく思う。
私が娘だったとしたら、娘と同じ体と心と脳で社会を生き抜いていたらもっと多くの課題にぶつかって、ふさぎ込んでいたかもしれない。
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娘の感覚はこんな感じかもしれないです。
多くの食べ物がグロテスクで口に運ぶこともできないけれど、お腹は減る。何か食べたい、できればおやつばかり食べたい、安心だし臭いもいいから。
常に、自然の音も街の騒音も人の声も同じボリュームで聞こえて頭はガンガンするし、日本語なんて覚えることができない。大切な人に呼ばれても振り返ることもできない。無視してるわけじゃないけれど、振り返ることができない。
また、海に連れて行ってもらうと波の音が心地よすぎる。こんな快適な時間あまりないから、つい遠くまで走って行ってしまう。
一方で、新しい場所に行くことが怖くてたまらない。お化けがでるかもしれない。呪われるかもしれない。戦争が始まっていて撃たれるかもしれない。不安で不安で仕方ないからパニックになる。パニックに陥るほど、足を踏み入れたくないんだよ。
学校では友達の泣き声が、耳に突き刺さるように痛くて不快。
毎日毎日、苦しいだけじゃない。寝る前に今日一日の怖かったことが、一気にフラッシュバックして、怒りや恐怖が全身を襲う。涙が止まらない日もあれば、怒りに支配されて母親に危害を与えないと怒りが治まらない日もある。
そんなことしたくないけれど、体がいうことを効かない。
娘が問題行動と呼ばれるものに至る過程は、こんな感じじゃないかなと予想しています。
もし、立場が逆だったらどうだろう。
私が娘で、そして娘が母だったとしたら。
きっと私は耐えることができない。
彼女以上に、問題行動というものに出ていたかもしれない。
娘はよくやっていると思う。
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娘は落ち着いているときは本当にやさしい。だから、定型発達として生まれてきていたら「困っている人が生きやすくなるための努力」に一生懸命になっているんじゃないかな。
もう一度、育児をやり直すことができるなら、娘が娘であることに価値をおきながら彼女の成長に付き合いたいなと思う。この社会で、穏やかに生きていけるように。
みんなと同じやり方で生きていくための、矯正する指導なんて一斉排除して、彼女を生きやすくする支援を求め続けたい。そのことが、彼女自身を「唯一無二の存在」であることの理解に繋がるといいなと思う。
「私はこのままでいいんだ」と、自分を認めて生きることは、落胆してしまうことの多い精神障害の人達の生きる勇気となると思っています。
誰かに自分のことを理解してほしいなら、まずは自分から他者の視点で世の中を見つめてみる努力が必要だと、私は考えます。
娘の退院のお迎えにいってきます。
今日は、ここまで。