Twitter上で仲良くさせて貰っている、カナダ在住のAkemi(@marcellus_akemi)さんのツイート、強く共感したので勝手ながら紹介します。
インクルーシブという言葉を度々使っていますが実はカナダでは学校でインクルーシブという言葉をほとんど聞きません。学校も公園も社会もインクルーシブそして人々の心も。インクルーシブが自然そして当たり前の環境だからあえて使う必要がないのかもしれません。#インクルーシブになれる法則
— Akemi Marcellus🇨🇦 (@marcellus_akemi) January 20, 2022
インクルーシブという言葉を度々使っていますが実はカナダでは学校でインクルーシブという言葉をほとんど聞きません。学校も公園も社会もインクルーシブそして人々の心も。インクルーシブが自然そして当たり前の環境だからあえて使う必要がないのかもしれません。
インクルーシブ教育とは、障害を抱える子と、そうでない子が共に教育を受けることです。それによって、よりよい共生社会の実現を目指すものとして、2006年に国連総会で「障害者の権利に関する条約」として呈されました。より具体的には「人間の多様性を尊重して、障害を抱える子ども達にとって必要な支援を施すことで精神的にも身体的にも最大限まで発達できるよう支援する教育方針のこと」といわれています。
私の子ども達は当時では珍しい「インクルーシブ教育を取り入れた幼稚園」に通っていました。しかし、そのときから「インクルーシブ教育を取り入れる」って変な言葉だと感じていたのです。
だって、障害を抱えた人もそこにいて当然の存在であり、必要な支援があればみんなと同じことができるのに、敢えて「インクルーシブ教育導入」って言葉をきくと心がざわざわしていました。その気持ちが今回のAkemiさんのツイートひとつで解消された気がする。
障害者と定型発達の人達は、けして線引きできる問題ではないはずなのに、日本では色濃く線引きされている。でも、線引きしなければ制度は利用できないし、手厚い支援も受けることができない。
でも、制度のための線引きが暮らしの中にも色濃くひかれている気がする。それによって、多くの障害児や障害児の親たちが悩んでしまう根源なんじゃないかなとも思います。
とはいえ私自身も、無意識に線引きをし誰かを傷つけることはありました。
先日は、地元に住む南米人の方に向けて「南米の人達って…」と、私が人種によって一括りにしたことに対し「自分達は南米人だけど、日本で働き日本で生活しているから外国人としてまとめて考えるのはどうかな」といわれ、めちゃくちゃ反省した。
また、子どもというだけで「自分より劣っている」と先入観を持つこともあります。知らないことは多いけれど、けして劣っているわけではありません。子ども達の吸収力は私より遥かに高く、現代を生き抜く力はかなり高いと感じます。子ども達は知らないことは多いけれど、劣っているかどうかは別の話。
だけど、線引きしないで公平にフラットに考えて欲しいからといって「平等なんだから、自力で頑張れ」と捉えられるのも困る。平等と公平・エコヒイキなどの区別は、私達日本人にとっては少し難しいことなのかもしれない。だって「みんな同じように頑張る」って風習があまりにも色濃く残っていて、それを社会の中から取り払うのは、きっとすごく時間がかかってしまうのだと思う。
現代に未だ残る「みんな同じ」を前提とした考えは、教育でも暮らしでも働き方でも多くの人が生きヅライと感じているはずです。ただ、自分だけその中から飛び出すのが怖いから、あえて「同じ」という括りに多くの人が治められたがっているように感じるときもあります。
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障害者(と、その家族)は、支援して貰わなければ生きていけない部分がある一方で、自分だってみんなと同じスタートラインに立ちたいと思っている部分もあります。
それに対して、どのように太刀打ちすればいいのかを、Akemiさんが発してくれた
「学校も公園も社会もインクルーシブそして人々の心も。インクルーシブが自然そして当たり前の環境だからあえて使う必要がないのかもしれません。」
という一言が、私にとって「日本もそうであってほしい」と願うような言葉だった。
多様性が当たり前であり、不足している部分を助け合うのが当然で、個性や意見を尊重することも当然。私は、それを社会性と呼ぶと思う。
社会性って、みんなからはみ出さないようにすることではなく、人にはそれぞれ違いがあると受け入れることなんじゃないかな。
今日は、ここまで!