自閉症育児をする中で、「障害を理解している風」「多くの個性を受け入れる風」の人に数多く出会ってきました。
みんな、「風(ふう)」なのです。その人たちは、カッコつけてるわけでもなく良い人に見せようといったいやらしい気持ちは一切なく、本当に「理解者でありたい」「万人の個性を受け入れる側の人間でありたい」と感じている、その気持ちに嘘はなさそうです。
しかし、その人の背景を見ていると「なんだかな」と思うこともあるために、「障害者の個性の受け入れ」について書き綴ってみましょう。
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障害受容の寛容さに違和感を感じるのは「障害は個性だ」「世の中色んな人がいる」と、障害者に理解を寄せるリベラルな人が、身近な人に対して会話がかみ合わなかったときに「話の分からない人」と苛立ったりしていることです。
障害者と話がかみ合わないことには寛容なのに対し、否応なく関りが必要な人と会話がかみ合わないときには、考え方の違いを「個性」とも思わず「理解されなかった」と凹んだり、怒ったりしている人がいることです。
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障害者の理解しがたい行動や発言・生き方について「個性」だと寛大視するのであれば、定型発達者と自分との考え方の相違だって「個性」のはずですが、そのときの寛容さの違いは何なのでしょうか。
これは、やはりどこかで障害者と定型発達者の間に人としての線引きをしているから起こる現象なのだと私は考えます。もちろん、支援が必要かどうかで考えたときには線引きが必要です。
しかしコミュニケーションにおいて「障害者と自分が分かり合えないのは、個性だから仕方ない」けれど、「定型発達者と自分は、定型発達者同士だから話せばわかるはず」というのは、「障害者における寛容に見せかけた、無関心」ではないでしょうか。
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親や配偶者といった家族、親しい友人や恋人・信頼を寄せる人に理解して貰えないとつらいですよね。
日常的に「理解されてばかりいる環境」「コミュニケーションがとりやすい関係」「共感しあえる人」とばかり付き合っていること「理解されること」「賞賛されること」が日常化するので、自分が大切に思う人に理解されないことは、とても苦しいでしょう。
そんなときには「障害は個性だ」「世の中色んな人がいる」と、障害者に対して考えることが出来るその寛容さを発揮してください。障害の有無に関わらず誰しも、分かり合えないことが普通で分かち合いたいと思えば、その人のことを知る必要があるし、工夫だって必要になります。
「分かり合えること」を前提にした思考で暮らしていると「あなたの言っていることが分からない」と伝えることが悪いことのように感じてしまいますよね。
でも、「分かり合えないこと」を前提として人と関わっていると「あなたの言っていることが分からないので、もう少し詳しく知りたいです」と、正直に伝えることが、良いことのように思えてきます。
同じ内容の質問なのに、不思議ですよね。
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「親子だから」「配偶者だから」といった理由で「分かって貰えることが当然」と考えているから、理解されなかったときにつらいし苦しいのです。
人と人とは、どんなに強い信頼関係があったとしても「分かり合えないことの方が多い」と理解していれば、理解しあうための努力や工夫を惜しまなくなります。
親しい中だから「ツーカーの中で当然」と、思い込むのではなく「どのように伝えようか」「どの部部分を理解して貰いたいのか」または「今回の件に対しては理解して貰う必要ないな」と判断できるようになれば、大切な人に理解して貰えなかったときにも気持ちの面で楽になります。
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私は自閉症児2人を育てる中で、気持ちを伝え合うことは一筋縄ではいかぬと学びました。だから、親子だとしても「気持ちが通じたらラッキー」くらいに考えるようにしています。どうしても伝えたいことある場合は、工夫と努力を積み重ねる努力を惜しみません。
社会に対しても同じです。自閉症育児の大変さを、他人に熱弁したところでどこか伝わっていないのです。伝わらないのなら、この人はそこまでして伝えるべき人なのかどうかを見極めればいいのです。
「分かってくれない」と苛立ったり、つらく感じたりするのではなく「どの部分が理解出来ませんか?」と伺いを立てて、相手に課題提起をしてみるのもいいと思います。
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自閉症児2人と暮らすのは本当に大変で、イライラしてばかりです。それでも、子どもたちのことを世界一愛していることに変わりはありません。
子ども達と「伝わらない暮らし」を続ける中で「本当に伝えたいこと」については、努力と工夫を積み重ねることが当然だと考えるようになりました。そのお陰で、日常生活における会話のすれ違いにも苛立ちを感じにくくなったように思います。
(年のせいかもしれませんが…)
今日はここまで。