見えない差別・無意識の差別|誰でも夢を思い描けるように

現在小学校4年生の息子は、中学生になったら「買い食い」をして帰ることをとても楽しみにしています。おそらく恋すら未経験の彼ですがは、出来れば彼女と一緒に公園でポケモンの話をしながら、買い食いを楽しみたいそうです。

 

とても可愛らしい夢だなと思いつつ、私は娘にも恋愛を楽しんで欲しいと思っています。

 

如何せん初めての恋愛は大きく傷つくこともありますが、愛されているという実感がもてます。女性に生まれたのなら、愛されることで自分はとても強くて脆い生き物なのだと、人としての弱さも楽しめる女性になって欲しいなと思います。

 

自閉症を抱える二人ですが、恋愛も遊びも趣味も仕事も何でもチャレンジして欲しい。しかし、そんな親心と裏腹に社会は自然と壁を作っています。

 

今回のテーマは、もうすぐ思春期に突入する我が家の自閉症児達の恋愛ではありません。定型発達者にとって当然のことは、障害者にとっても当然であって欲しいという親心を「見えない差別・無意識の差別」という観点で書き綴っていきたいと思います。

見えない差別・無意識の差別|幼稚園の入園式の思い出

見えない差別・無意識の差別って何だと思いますか。今となり振り返ると私自身も過去に、多くの見えない差別や無意識の差別をしてきましたし、今でも意識しないとしてしまいます。

 

今回は具体的に一つの例を、あげてお伝えしましょう。

 

以下の写真は、娘が4歳のとき幼稚園の入園式の写真です。

この写真を撮ったとき、私・娘・加配職員の3人以外は幼稚園の入園式の真っ只中です。

入園式が始まる前、集団に混ざることが難しい娘に対し多くの幼稚園職員の方が「無理して参加されなくていいですよ」と、優しい口調と笑顔で声をかけてくださいました。

 

それも、一種の優しさなのでしょう。
障害のある娘に配慮したいという職員の気持ちに、嘘はありません。
でも、これが私の考えるところの「見えない差別・無意識の差別」なのです。

 

「無理して参加されなくていいですよ」ではなく「どうやったら参加出来たのかな」と事前に考えてくれるのが理解を伴った優しさなのではないでしょうか。

 

「無理して参加されなくていいですよ」の前には、けして聞こえることのない「障害があるから」「混ざることの出来ない子だから」といった気持ちが無意識に見え隠れしている気がしてなりません。

「そこに居ることが当たり前の子」へ

幼稚園入園以降は、集団の中で我が子が生活をするようになると、親である私も連動して「見えない差別・無意識の差別」を感じることが増えました。

 

私がどんなに見えない差別と感じても、相手(支援者側)からすると配慮ですし優しさも伴っています。だから、どんなに虚しく思っても相手のことを思うと涙を見せてはならない気がして、涙を我慢することで喉のあたりがいつも熱くなっていました。あのときの、喉が熱くなる症状は今でもすぐに思い返すことが出来ます。数えきれないほどの、経験を繰り返したのでしょう。

 

運動会や発表会に参加出来ないと謝りに来られたことも
遠足の途中で「もう帰られてもいいですよ」と言われたことも
明日は、園のイベントがあるので休まれてもいいですよと言われたことも

 

その全てが、不安感が強くパニックになりがちな娘を配慮した支援する側の優しい気持ちだったはずです。

 

でもね、娘は参加できない子ではありません。正しい支援と配慮があれば、参加出来る可能性だって高かったはずです。「障害があるから参加しなくてもいいよ」って気持ちは、本当の優しさじゃない。だって「そこに居ることが当たり前の子」なのだから。

 

みんなと同じ方法で参加することは、発達障害を抱える子にとっては公開処刑のようなものでしょう。そのときに「この子は今どうして欲しいかな」「どうやったら、参加できるかな」「何が不安で、何をとっぱらえば参加できるのだろう」などといったことを考えて欲しい。それが、私が考えるところの配慮であり支援です。

 

あれから10年近くたちました。当時は、自治体も教育機関も、職員も親も手探りだったことでしょう。遅々たる歩みだと思いますが、少しずつ時代が変化していっていますように。

みんなにとっての当然が、私たち親子には果てしないほど遠い

私が育児に抱く幻想や夢は、一般的なお母さん方と比べて遅々たる歩みでした。

 

  • 一緒に手をつなぎたい
  • 目を合わせてみたい

この夢は娘が5歳頃に達成することができました。一般的には悩むことすらない育児経験のひとつのはずです。

 

小学生になると一気に夢がレベルアップしました。

  • 観光地へ行ってみたい
  • 一緒に海へ行きたい
  • 映画館へ行きたい

この中でも特に、映画館へ入れた喜びは今でも覚えています。

 

一般的な子育てでも、子どもが幼いうちは観光地へいくことも映画館へ行くことも大変なことです。スムーズに行けない子だって多いものですが、障害を抱える家族がいる場合は、その夢にたどり着くまでの課題があまりにも多いのです。

夢をもつことくらい豊かであってほしい

今まで、多くの方々にとって当たり前のことが、我が家にとっては当たり前ではないことが多い育児でした。社会が提示するところの当たり前を手に入れるためには途轍もない労力が必要なんて虚しいと感じながら、約12年ほど親をしてきました。

 

今後も果てしなく、この虚しさが続くと言われたら辛すぎます。私でこうなのだから、当事者である子ども達は、これからもっと辛く苦しい道が待っているかもしれません。(待っていないかもしれません、そうだといいな)

 

自分と同じ状態で「当たり前」を手に入れることが出来ない人たちのことを、可哀そうと思う前に自分は手を差し伸べる側であることに気が付いてほしい。それに気付くことのできない国や社会は「豊か」とは程遠いと、私は考えます。

 

さおり

…とはいえ、みんなが「理想に向って頑張るぞ!」と自分を犠牲にしてまで他人に尽くす社会なんかになったら、これまた豊かとは反対のことがおこりますけどね。

出来る人が出来る範囲でが、大切。

 

さいごに…

楽むこと、チャレンジを積むこと、(けして実現しなくても)夢を持つことくらい、全ての人にとって当たり前のことであってほしい。参加するかどうか決めるのは、障害者側の方であってほしい。そのためには「どうやったら参加できるのかな」「この人どうして欲しいのかな」と、当事者の気持ちを考えることが配慮なのです。

 

福祉の会議では、「将来のお子さんの希望は支援就労か施設か」など問われますが選択肢が少ないと感じます。不況とは言われ続けていますが、社会全体の働き方・就労の在り方をみているとその選択肢は無限に広がり続けています。そんな中、障害者の就労選択肢は数十年変わらない。

 

障害者に限りません。生活保護受給者だって、ときには贅沢な食事をするかもしれない。育児中のお母さんが、一晩飲み歩くことだってあるかもしれません。「誰かが当たり前にしていることは、自分は立場上出来ないこと」になるなんて、何者かになることが怖くなる社会ですよね。

 

これでいいの?例え我が子に障害がない親だとしても、そんな社会で我が子を大人にさせたいの?

 

障害者が自分たちの輪の中にいることが、当たり前のことで、途轍もなく自然なことになる日が来るといいなと思います。

 

今日はここまで。

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