障がい者と障害者|表記の論争について自閉症児の母が思うこと

障害者の表記についてSNSで論争されていたので、私なりに考えてみました。

 

障害者」と書くのか、「障がい者」と書くのか…ときに「障碍者」と「害」の文字を「碍」に変えて書く人もいます。

 

正解のない「しょうがいしゃ」の表記の答えに、自閉症の母として感じることをお伝えしたいと思います。

障害者と障がい者|どちらの表記がいいのか

障害者と障がい者の表記は、どちらが正しく、どちらに配慮があるのでしょうか。

 

私は、障害者と障がい者の両方使いますし、実は特に意識していません。両方使う理由は、ただ単に「あわてんぼう」でパソコンの変換によって「障害者」と打つときもあれば「障がい者」と打つときもあるからです。特に、どちらかを不快に思うことはありません。ときに障碍者と使ったこともあります。漢字がなんだかカッコいいなと思ったからです。

 

もちろんwebライターの仕事柄、クライアントより漢字の指定があった場合には、それに従いますが同じく不快に思ったことはありません。

 

障害者と障がい者について「どちらの表記がいいのだろう」と考える人たちは、思いやりの気持ちから表記について悩んでしまうのでしょう。障害を抱える人やその家族の気持ちを配慮し、障害に歩み寄りたいと思うその気持ちに嘘はないはずです。

 

「どちらの表記がいいのか」考る人は、それが自分なりの歩み寄りや配慮だと、心の底からそうだと思っているはずです。

 

しかし、どれだけ一生懸命考えてくれたとしても文字面によって、差別意識がなくなることはありません。

 

「障がい者」の表記を配慮だと感じてくれる人もいれば、逆にこのような書き換えに不快な気持ちになる人もいます。

 

ちなみに、法律上使用されているのは「障害者」だそうです。文字の書き換え表記によって、不快な気持ちになる人を否定はしません。個人的は、自閉症児の親として「表記の書き換え」へのこだわりに、それほど大きな意味があるとは思えません。

障害は本人が抱えているものではなく、社会の問題

障害とは本人のことを言うのではなく、社会側の問題のことだと私は考えます。

 

障害者が抱えている「生き辛さ」は、本人が定型発達者の暮らしの基準に合せ努力を積み重ねるから感じてしまいます。

 

障害者が自分のキャパシティ以上に頑張らなければならないのは、多数派の暮らしに合せた社会の仕組みに不備があり、ハンディキャップに対応していない設備や制度の少なさに問題があります。そんな社会だから、障害者の暮らしが追い詰められ「可哀想」にみえてしまうのです。

 

障害者を生き辛く、肩身の狭い思いにさせているのは「整備されていない環境」「足りない支援や制度」、それともう一つ。「理解」です。その視点を大切にしていると、変わるべきは障害者ではなく、社会の方でしょう。

 

全ての人が「自分が描いている夢を、障害者が諦めていることをおかしいこと」と気付き、障害者にも夢を思い描いてもらうためには「どのような社会的配慮が必要なのか」と、考えることを「歩み寄り」や「優しさ」というのではないでしょうか。

 

そう思うと「表記についての論争」が、少しおかしく思えてしまうのは私だけでしょうか?

 

障害者の暮らしやすい社会は、定型発達の人にも暮らしやすい心豊かな暮らしのはずです。そのような心のゆとりがもてる社会となれば、障害者やそのご家族の方々も表記について「どちらでもいいですよ」と言ってくれるはずです。

色鉛筆の「はだいろ」と「ねずみいろ」の表記について

ここで少し、色鉛筆の話をさせてください。

 

昭和生まれの私が子どものころは「肌色」と呼ばれるクレヨンや色鉛筆がありました。現在は「うすだいだい」や「ペールオレンジ」に変わっているそうです。

 

これは、世界中を見渡せば肌の色は人それぞれなのに「肌色」を作ってしまうことで、標準的な肌の色が存在してしまうといった考えが主張されたからです。

 

当時は「一様に肌色を決めるのは差別だ!」と、論議されていました。時を経て、息子が肌色のことを「ペールオレンジ」と言ったときに、「そうなったんだ~!」と、時代の流れを感じました(笑)肌色反対派の主張が、勝利したのですね。

 

当時まだ若かった私ですが、肌色が論議されるなかで「ねずみ色はどうなるの?」と気になっていました。ねずみだって、多色なのに…。表記として「ねずみ色」と付けられているだけのこと。だから「肌色の表記に、そう熱くならなくても」と感じていました。※今では、「ねずみ色」が「グレー」や「灰色」に変わっているので、ネズミも配慮を受けたのですね。

 

色の表記が変わって数十年。人種差別はなくなったでしょうか?

 

けして「なくなった」とは言えないでしょう。色表記の背景から学ぶべきは、呼び方への配慮よりも、差別意識の絶滅を目指すことです。

正しさや配慮とは、結局のところなんぞや?

正しさや配慮って、結局のところ何なんでしょう?

 

「障害のあるあなた達を、言葉で不快にさせたりはしない!」という配慮は、正しくもあり優しくも聞こえる、甘美な言葉です。その気持ちに、嘘はないことを理解しているつもりです。

 

しかし、本当に変わっていくべきは「表記へのコダワリ」より「社会のバリアを、取り払っていくこと」ではないでしょうか。

 

「肌色」が「はだいろ」に変わったように、「障害者」と「障がい者」の「どちらの表記がいいのか」といった会議が開かれれば、そこには公務の方々への人件費もかかるでしょう。その人件費で、街のスロープが増えたり、街の段差がなくなったりするほうが、障害者にとってはよほど助かります。

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以前、息子に「お友達みんなが当たり前に出来ることを、自分が同じように頑張ると泣く人がいるのはなぜ?」と聞かれたことがあります。その涙が、「優しさなのか」「思いやりなのか」それとも「違う何かなのか」を理解できる人が増えるといいなと思います

 

ヘレンケラーの名言を最後の紹介しておきます。
「障害者は不幸ではなく、不便なだけです」

 

今日はここまで~♪

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