「ひとり親として、自分の人生の終え方」ALS患者嘱託殺人事件に思うこと

こんにちは、さおりと申します。

私は、自閉症児2人のひとり親をしています。

👧2009年生まれの特別支援学校に通う、自閉症の女の子
👦2011年生まれの特別支援学級に通う、自閉症の男の子

今日は、ちょっとセンセーショナルな話題を…。先日「ALS患者女性殺害」という大きなニュースが報道されました。難病であるALS患者女性の依頼を受け、薬物を投与して殺害されたとして医師2人が逮捕された件です。>>記事はこちら

 

今回は、この事件をもとに「安楽死と尊厳死」そして「ひとり親にとっての親の死」「親亡き後の障がい児」のことについて考えたことを書いておこうかなと思います。

「ALS患者嘱託殺人事件」について

「ALS患者嘱託殺人事件」は、難病ALSで筋肉が動かなくなった患者自身のが、生活のクオリティに限界を感じ「人生を終わらせたい」と自ら願ったことが発端だったようです。

 

想像できますか。徐々に筋肉が機能しなくなり、意識ははっきりとあるのにもかかわらず、体を動かなくなっていくことを。そして最後にはベッドでずっと横になってやりたいこともできず、呼吸をする毎日を。私は、そこに生きる意味を見出せる自信がありません。

 

今回殺害された、ALS患者の方もそう思われたのでしょう。眼球だけ少し動くことを利用しコンピューターに意志を打ち込み伝えるということを日頃からされていたようです。そうしたことを使って医師に殺害を自ら依頼されことが今回の事件となりました。

安楽死について。

今の日本では、安楽死は制度として認められていません。どんな状態であろうと、死ぬことがないように治療されていきます。たとえ、残りの人生をずっとベッドの上での人生を送ることになったとしても、体中から機械やチューブをつけられて生かされます。本人が延命治療を望んでいなくても、その家族が何を言おうとも生かされます。

 

世の中には、可能な限り生きたいと思う人もいれば、人生を終わらせたいと願う人もいるでしょう。今回の事件は「人生を終わらせたいと願った人の望みを叶えたこと」が事件になりました。そのなかには、もしかするとですが「生きることの苦しみからの解放」という概念もあったのかもしれません。(あくまで推測です)

 

ひとり親や障がいある子の親亡き後

私はひとり親です。そして、子ども達は2人とも障がいを抱えています。かぞく3人共が社会的弱者ともいえます。そんな私が寝たきりの状態になってしまったら、私は「生と死」に関してどう思うのか考えてみました。

 

障がいのある子を世話できない自分が生きていても、誰かに迷惑をかけることばかり。それに障がいを抱えていると言えど最愛の我が子を、両手で抱きしめることすら出来ないのなら…そして子どもたちが困っていてもすぐに駆け付けることもできないのなら…。

 

私も今回の被害者の方と同じように、この世を去りたい。そんな風に思います。子どもたちの気持ちは考えないのかと思われそうですが、もちろん考えますよ。寝たきりで喋ることすら出来ない私が生きていることは、子どもたちの生きる糧になるのだろうかと親として考えないわけありません。やはり私は、安楽死を望むのだと思います。

 

なぜなら、子ども達には自分の人生を一生懸命生きて欲しい。「誰かのため」と思うその前に「自分のため」の人生を生きて欲しい。そのためには、私も自分の人生を生きるべきだと思ったからです。

反対に、自分の家族に難病が降り注いだら?

世界一考えたくないことですが、考えておきます。自分の家族や大切な人が、そうした難病になった場合どうなのでしょうか。上述してきな内容では私自身は安楽死を認めておきながら、家族に難病が降り注いで動くことが出来なくなったとしても絶対に安楽死を選ぶことができません。

 

「もう延命治療はしないで欲しい」と本人が望んでも絶対に認めることが出来ません。可能な限り生きて欲しい。ずっと、生きて欲しい。そんな風に思ってしまいます。

 

でも考えてみれば、この場合に「死を望む本人」を不幸にしているのは、他の誰でもない私となってしまうのですよね。「もう生きたくない」と苦渋の決断をしたのにも関わらず、私はそれを許すことが出来ない。なんとも辛い意見のぶつけ合いなのでしょうか。

 

自分の人生を、誰かが決めるということは本当に残酷なものですね。

世界の安楽死を調べてみました。

オランダは2002年に初めて安楽死を合法化しまし、その後ベルギー・カナダ・ルクセンブルクでも合法化されました。アメリカでも、一部の州では安楽死が認められています。スイスのようにはっきりとした法律はありませんが、「利己的な動機」以外の自殺ほう助は処罰しないという刑法解釈から安楽死を容認しているところもあります。

 

私は政治的にも、医療知識についても詳しくないただの主婦なのですが…一言。

 

日本では、こうした安楽死の問題を論議することすら「良くない」という雰囲気があります。とても大切なことなのに、個人では論議することもタブー視されており、国が決めることといった風潮があるように思います。いずれ迎えるべき「家族の死」「個人の死の在り方」「自分自身の人生の終え方」って、元気なうちに話し合ったり向き合ったりして置くことって大切なこと。

 

考えたくないことではありますが、誰もが必ず迎える「死」について考えておくべき時代なのだと思います。

時代が変わった

ひと昔前までは「人生の終わり」は家で迎える人が多かったんですよ。ですが現代は病院や施設で迎える人がほとんど。時代が変わりました。気付きにくいものですが、時代に合わせて自然と変わっていることが多いものです。

 

私は、変わりゆくべきだなと思っていることが他にもあります。そのひとつが「自分のことは自分で決める」ということ。先進国の中でも日本は「自分のことを他の誰かが決めるケース」が非常に多い。

 

時代をさかのぼれば、結婚相手も親が決めていた場合が多いですし、職選びも長男というだけで家業を継がされる人が多かった。第二次世界大戦後から徐々に変化していきましたが、学校の服や靴の指定といった個人のオリジナリティについても指定されることも多いですし、ランドセルなんて高いし重いし使い勝手も悪いのに、なぜ指定されているんだろうと思うこともあります。

 

守られるという意味では悪いことではないのかもしれませんが、国や親、グループで決めるといった文化が強すぎだなあと思っています。個人的には個人の生き方については、国やグループ単位よりも個人で決めるべきではと思っています。個人で決める風習が根付かないから自分の意見を持つことや自分のことを自分で決める力が私たち日本人には足りてない気がしています。

 

そうした延長線上に、尊厳死や安楽死といった問題もあるのではないかなあと、勝手に思いました。

ひとり親としての、自分の人生の終え方についてのまとめ

かなり話がそれましたが…ひとり親、障がいを抱えた子がいる家族、おひとりさまといった方にとっての終末期医療って、問題としてかなり根が深い。いつかは必ず向き合わなきゃいけない問題なのに、向き合う場も少ない。

 

人間はいつか必ず人生を終えてしまうものです。それは、とても大切なことで考えておかねばならないこと。そんな風に思っています。

 

今日はここまで!

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